

ベートーヴェンに見る和声の「緊張と緩和」
フランスの作曲家オリヴィエ・アランは『和声の歴史』の中で、ベートーヴェンは和声を「力学的に曲を構成するために」使っていると述べています。ここで言う「力学的」とは、和声における「緊張と緩和」によって生じる「音楽の推進力」のことだと考えられます。それでは和声の緊張と緩和とはどのようなことでしょうか? 今回はベートーヴェンの和声を学んだ上で、ロマン派の和声まで概観してみましょう。
そもそも緊張と緩和は和声の基本であると言えます。不安定なドミナンテによって生じた緊張感は、安定するトニカになることによって緩和されます。その緊張と緩和をいかに美しく仕上げるかということが和声法の課題の1つです。
和声の緊張と緩和は、もちろんモーツァルトの作品にも見出せます。推移句の転調は調が転ずるという不安定なこと、緊張感の生じることをしているのですから、第2主題で属調に落ち着くことによって安定感と緊張の緩和をもたらします。展開部の聴き手を驚かせるための転調も、最終的に再現部で主調に戻ることで安心感を与えるわけです。モーツァルトにしてもハイドンにしてもロッシーニにしても、和声の緊張と緩和は音楽である以上は当たり前のようにあるのですが、ベートーヴェンの場合その度合いが強くなります。次の譜例を見てください。
譜例1

これはベートーヴェンのピアノ・ソナタ21番。「ワルトシュタイン」として知られている作品の冒頭です。調号が付いていない上に、「c-e-g」の和音で始まっていることからCdurの作品であることがわかります。主調がCdurなので属調はGdur。つまり第2主題はGdurですね。しかしこの冒頭部の直後は次のようになります。
譜例2

いきなりフラットが増えて、脈絡もなくBdurに変わっています。私たちがこれまでに学んだ転調法は、転調の直前に転調先の特有音を含む和音を挟むという方法でしたが、ここではBdurのIの和音が現れる直前はCdurのVの和音、つまりBdurにとって一番重要なbの音ではなく、hの音が含まれる和音が置かれているわけです。特有音を用いて転調するという考えは、ここではなさそうです。
譜例3

実はこの部分は、脈絡がないからこそ効果的だと言えます。そして、ソナタの冒頭においてすぐに意外な調に変わるということは、ベートーヴェンの中期以降のソナタにおいて頻繁に見られる方法です。それは転調と言うよりも、いきなり「調が変わる」と言った方が適切かもしれませんが、ソナタの冒頭においてなぜこのようにつながりのない調に変えるのでしょうか?
それは脈絡のない調に変えて和声的な緊張感を与えることにより、劇的な音楽に仕上げるためだと推測できます。この作品が発表された当時の、ハイドンやモーツァルトに聴き馴染んだウィーンの人々は、CdurのVからBdurのIに進むという、つながりのない和声進行に驚きつつ、「ちゃんと第2主題で属調に到達するだろうか」と不安を感じたのかもしれません。まさにこの驚きと不安を与えることがベートーヴェンの狙いで、そうすることによって第2主題で属調になることにより聴き手はより深い安心感を得ます。
これは心理的なことで、私たちの日常でも、小さい頃から真面目に勤勉に勉強していた人がしっかりとした大人になるよりも、小さい頃は不真面目だった人が様々なことを乗り越えてしっかりとした大人になる方が、どちらも同じように良いことだとしても、後者の方がなんだかすごいことのように感じます。
それと似た振れ幅の大きさが、ベートーヴェンの和声にも見られる特徴なのです。モーツァルトの推移句に見られるような「聴き手を納得させる」という考えはベートーヴェンにはそれほど見られず、それはむしろ「聴き手をハラハラさせる」ものだと言えそうです。そしてそのような緊張と緩和の繰り返しによって、音楽に推進力をもたらしています。
ロマン派の複雑な和声について
さて、ベートーヴェンに見られる緊張と緩和ですが、その精神は後のドイツ・ロマン派の人々に多少なりとも受け継がれています。すでにベートーヴェンにも見られることですが、ベートーヴェンから時代が降るにつれて、不安定なドミナンテから安定したトニカに解決するまでの距離が長くなります。より緊張の度合いの高い和声が長く続く複雑な音楽が増えてくるのです。
次の譜例は、ロマン派の複雑な和声について解説される際に飽きるほど頻繁に出されるワーグナーのトリスタンとイゾルデの冒頭部ですが、このように「どの調かわかりにくい和音が延々と続くことで高い緊張感を保ち、最終的には壮大にトニカに解決し緊張が緩和される」という和声的な構図は、ロマン派、とりわけ後期ロマン派によく見られるものです。
譜例4

トリスタンとイゾルデの和声についてはすでに多くの解説がありますので詳細を省きますが、ここではリストのペトラルカのソネット第47番の和声を簡単に紹介したいと思います。
譜例5

調号が1つも付いていないのでCdurかamollのどちらかであると思ってしまいますが、よく見ると音符にシャープやフラットがたくさん付いていますし、6小節目からは調号にフラットが5つ付いています。実はこの作品はDesdurです。12小節目からは次のようにはっきりとDesdurになっています。
譜例6(ペトラルカのソネット第47番の12~13小節目)

譜例5は譜例6に至るまでの導入であると考えられ、和声的にも不安定であることから冒頭にあえて調号を付けていないのだと考えられます。つまり、音楽作品において調号が付いていないということは、①その部分がCdurかamollになっているということか、②その部分の調が不明瞭(もしくは無調的)であるかのいずれかで、この曲の場合だと後者にあたるのです。それでは譜例6に至るまでにどのような和声進行を経ているのでしょうか?
譜例5の和声を要約すると次のようになります。
譜例7

①はAdurの、②はDesdur、そして③はFdurのIの和音です。AdurとDesdur、FdurのそれぞれのIの和音にどのようなつながりがあるのか、非常に難しいところですが、次のように考えてみましょう。譜例7の①と②には1音だけ共通する音があります。それはcisの音です。
譜例8

そして②のCisdurのIにはeisの音が含まれていますが、この音はピアノの鍵盤上で見てみるとfと同じ音です。このように同じ音でもeisやfというように名前が違うものを「異名同音」と言います。なので、②と③、どちらにもeis(f)が共通していることになります。
譜例9

そして③と④、⑤の和音全てに共通する音はaになります。
譜例10

このように1音ずつ音を共通させながら和音が変わっているわけですが、その結果共通しているdesとfとaが印象的に浮かび上がります。そのうちのdesとf、2つの音を含むDesdurとbmollのIの和音が連想されます。
譜例11

そして、6小節目でフラットが5つ付くことにより、Desdurかbmollに進む気配を出していますが、6小節目から11小節目にかけて基本的にDesdurで解釈できるため、この時点でDesdurであることがほぼ確定します。これまでの和声進行をまとめると次のようになります。
譜例12

ここまでに、ベートーヴェンの和声を学んだ上で、ロマン派の作品も見てみました。このように和声が複雑に進化した結果、最終的に音楽は無調的なものになりました。その際に大きな影響を与えたと言われるのが、今回少しだけ紹介したトリスタンとイゾルデです。ここでは解説を省きましたが、トリスタンとイゾルデについてもぜひ調べてみましょう。
課題として次の作品を題材にします。今回取り上げたような複雑な作品ではなく、モーツァルトの作品の和声要約ですので、これまでの知識で十分に解けるでしょう。
課題

前回課題解答

前回課題の解説:
gmollから始まり、dmoll、amollを経て、最終的にはFdurになります。Gmollからdmoll、dmollからamollになる際はドッペルドミナンテ、つまり転調先のドミナンテを挟んで転調しています。これまでの和声の解説では紹介していませんが、9小節目から12小節目にかけてゼクヴェンツされています。ゼクヴェンツとは反復進行のことで、「ひとつの短い楽句を、音高を変えながら、何度か繰り返すこと。」と音楽之友社の『ポケット音楽辞典』では説明されています。つまり、9小節目のamollのI1→IVという進行が、2度ずつ音高を下げながら、10小節目で「VII1→III」、11小節目で「VI1→II」、12小節目で「V1→I」と移っています。
まとめ
最初に挙げたオリヴィエ・アランは同じく『和声の歴史』の中で、「ベートーヴェンについては、偉大な和声家だとはいわれない。」と述べます。確かに私が音大で作曲を勉強していた時も、和声法を修得するためにベートーヴェンを題材にしたことはなく、形式に関する興味からベートーヴェンを分析していました。とは言ってもベートーヴェンのその「力学的な」和声から学ぶことは多いので、他の作品についても調べてみましょう。
ところで、今回はドイツ系の作曲家の作品を取り上げましたが、その和声の多くは劇的であることが多いです。西洋の芸術音楽において、ドイツ系とフランス系の作品の違いについては度々話題になりますが、フランス系の作品はドイツ系とは異なる趣きがあります。フランス和声の魅力についても後に解説する予定です。
さて、次回はこれまでの題材とは少し異なり、ポップスの和声分析に取り組みたいと思います。
